★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 「kizz_army」のジャンル別Blogリンク!! 興味のあるジャンルのタイトルをクリック!! (^^) ==過去に書いた記事はこちらのBlog == ≪ KISS KIZZ ROCK'N ROLL FIRE!! ≫ == フォトリーディング&マインドマップ活用の読書記録 == << 知識増量堂 ブックセンター >> == 世界遺産を見たぁ~~~いい! == ≪ 世界遺産に魅せられて… ≫ ==日常を向上させるヒントや情報のBlog== ≪ 日 常 向 上 旅 団 ≫ ==映画鑑賞専用Blog== ≪シネ、シネ、シネマ団≫ ==コンサートや、観劇、スポーツ観戦のBlog== ≪鑑賞、観戦、観劇…やっぱり生がいい≫ ==テレビ観賞専用Blog== ≪テレビっこ、世にはばからせていただきます。≫ ==食べ物の情報、食い物屋の情報等のBlog== ≪マスタ! おまかせでお願い!≫ ==きれいな日本語を話したい! って事でそのまんま!== 《きれいな日本語を話したい!》 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ とうとう、旧電電公社である所の NTTでさえ、 (正確にはdocomoだけど…(^^;) 「マネージャーは 今日の試合に"来れない"」と あからさまに「ら抜き言葉」を使用したCMをぶちかましてきました! 「ら抜き言葉」にまだまだ違和感を感じているみなさま… いかがお過ごしでしょうか… (^^; と言うことで、今日はテレビのニュース番組等に多い 画面下に出る字幕のお話… 昔に比べて、インタビュー等でしゃべっている内容が そのまま字幕になっている事って多くなりましたよね。 一部の方には、非常にありがたい事なのかもしれませんが 個人的に、あれは非常に邪魔! いらん! しゃべってるのと同じ内容なんだから、 聞けば十分わかる! (--; ましてや、某「エンタの神様」の様に、お笑い番組で ネタに字幕を付けるなんて言う言語道断な暴挙に至ってはは、 番組のタイトルを皮肉るかのように、まさに「神への冒涜」(^^; この件に関しては以前に、 『エンタの神様』 ってな記事にも書いてます。 ちょっと前に、チャンネルの選局中に数年ぶりくらいに ちらっと見たら、字幕なくなってるんですね。 しかも、以前よりまともな番組になってる感じがしたんですが…(^^; でね、そのニュース等のインタビュー部分の字幕… 各局毎なのか? 各番組毎なのかはわかりませんが、 微妙に対応が違うんですよ。 知ってました? 以下のようなパターンがあるんです。 ・言ってることそのまま ・「ら抜き言葉」 => 「らを抜かない言葉」に変換 ・「すごい」の副詞的用法 => 「すごく」に変換 つまり、まだまだニュース番組を作っている人達は、 「より適切な方向」をある程度意識してる方々が 多いって事がわかるんですね。 つまり、前回の記事で言っていた、例の「言葉のゆれ」に伴い 各局、各番組の字幕への対応も非常に「ゆれ」があるって事… 更に、先日のNHKの朝のニュースでは インタビューに答えた人が、「すごい」を副詞的に使っていた部分を 「とても」に変換してたんですよ! まるで、このBlogの記事 『 【すごい】=>【とても】即時変換のススメ! 』 を読んでいたんじゃないか?ってな光景に、 アタシャ、涙の一粒もこぼしそうだったんですよ < (嘘) かと思えば、実は、上記の逆のパターンもある… 「らを抜かない言葉」を喋っているのに、字幕は「ら抜き言葉」だったりね…(^^; でも、上でも言ってるけど、個人的には字幕っていらないと思うんですよ。 本来の様に、 名前だったり、 年号だったり、 場所だったり… そういう補足説明的なものを字幕にするべきだと思うんですね。 実際、ほんとうに必要なら「字幕放送」もあるし、 デジタル放送の場合は、別途字幕サービスもあるみたいじゃん? しかも、字幕を付ける必要があると判断したとしても、 その内容を「改ざん」するのはおかしいと思うわけですよ。 字数の関係上、言った事を「まとめる」ってのはわかりますが、 「すごい/すごく」にしても、「ら抜き言葉」にしても、 それは字数に関係ないもんねぇ? あえてやってるわけでしょ?(^^; この辺りも、「放送倫理・番組向上機構(BPO)」にて 検討、統一していただきたい所でありますね。 ってまぁ、それほどおおげさなもんでもない?(^^; #
by kizzarmy_wording
| 2009-04-03 09:49
「道具」としての「言葉」は変化していくもの… と言う前提に立って、前2回位は「ら抜き言葉」について 書いたのですが、 「じゃ、なんでもありか?」 「どんな変化も受け入れるの?」 って事になると話は別よね(^^; これが不思議な事に、やっぱりそれなりに 「理にかなっているモノ」 「理屈より便利さが勝っちゃうモノ」 が、自然淘汰によって生き残っていく様な気がするんです。 定着しないものは「単なる流行り言葉で終わる」って事よね。 しつこい様だけど、そんな中にあって 「凄い/凄く」は、意味を判別しづらくするという 明らかな弊害があるにも関わらず、市民権を得てるんだよね。 さて… そういう世の中の動きがあるわけですから、 さすがにアタクシも、イチイチ周りの人に だれかれ構わず、「ら抜き言葉」を注意して回ってる わけじゃありません。(^^; 「見れる」「食べれる」 あたりは、もうほんと普通だもんね。 ほとんどの人が違和感さえも覚えないレベルじゃないの?(^^; なので、ちょっと上から目線的な表現に 聞こえるかもしれないけど、(^^; 「見れる」「食べれる」などは、もう許容範囲…かな…と… だけどねぇ~ 「ら抜き言葉」のオーソリティの方々は、 既に一歩先を行ってしまってるんですよ。 さすがに、これを実際に使っているのを聞いた時は、 言い間違いなのかと思ったのさ… でも、次から次へと出てくるその言葉… なんだかちょっと悲しくなりました。(;_;) その言葉ってのが「れ入れ言葉」なんです。 最初に聞いたのは、職場… なんかプリンターに印刷できる/できないの話題だったみたいなんですが… プリンターで印刷する事って、今だに「打ち出す」って言うじゃないですか? でね、そのかたは… 「打ち出せられない(打ち出せない)」を 「打ち出せれれない」って言うのね。 それを筆頭に、まぁ~ 出てくる出てくる 「つけれづらい」 => 「付けづらい」 「つかえれる」 => 「使える」 「しんじれれない」 => 「信じられない」 「打ち出せれれない」、「しんじれれない」に至っては 「ら」を抜いて、「れ」を入れてるわけだからね。 「ら抜き言葉愛好家」の方にとってさえ、邪道じゃないのかな? なぁ~んて思ってしまいます(^^; ってか、「ら抜き、れ入れ言葉」って新しいジャンルを 形成してるとも言える? しかもね、 これを使うのが、20人弱のオフィスで複数人確認されている上に、 新人君とかじゃない、それなりの年齢、それなりの立場の人だから 尚更気になっちゃうのさ… しかも、その一人は、 その会社の「採用面接担当」「新人研修担当」だったりするのよ… ちょっとヤバい感じがしちゃいませんか?(^^; なんでこんな事になっちゃったんでしょう?? そこで、お願いです。 教師や、「国語審議会」等に関連する皆さん、 さらには、そういう事に影響力のある方々… 「ら抜き」はもう仕方ないとしても 「れ入れ」はまだ間に合いますよ。 なんとか、瀬戸際で止めていただけませんでしょうか…(^^; なんかさぁ、常にそういう事を告知したり、警告したりするシステムが ないのがそもそも問題だよね。 「変化を許容する中でも、母国語を大事にする」 ってな意識がもう少しあってもいいような気がするんだけどなぁ… 「いれれない」とか「しんじれれない」とか言われると、 ほんとがっかりしちゃう… 「レレレのおじさんかよ!」って言いたくなる。 言えばいいのかぁ?(^^; だって、「良い方」「便利な方」に変わるのならまだしも、 これって、言いにくいだけで、 何のメリットもないような気がするんだけどなぁ… 更に、耳障りな事この上なし…(--; 言いにくいのをあえて使ってるってのも ある意味凄いんですけどね… (^^; 「れ入れ言葉」…あなたはどう思いますか? #
by kizzarmy_wording
| 2009-03-17 09:09
「前編」のつづきです。 前述しましたとおり、「ら抜き言葉」について ヤイヤイ言う一つの動機に、「耳障り」って事があるわけです。 「ら抜き言葉」を聞くと、 「ん? なんか変だなぁ??」と無意識に思ってしまうわけです。 極端な例ですが、 「私は Blogを書いています」 を 「私を Blogを書いています」 って言われたら、 「ん? なんか変だなぁ??」 と思うじゃないですか? 基本的には、これと同じなんですね。 「ら抜き」も「凄い/凄く」も… 遠い未来には「私を Blogを書いています」って 言い方をめぐって議論が交わされてるかもしれませんけどね(^^; ところが! ほんとうに、ところがなのよねぇ~ うちの若い衆(^^;と話していたらね。 「[見られる]とか[食べられる]とか言われると変に聞こえる」 つまり、「ら抜かない言葉」の方が、「耳障り」だってぇのよ! これは辛いよね。 「ら抜かない言葉」にこだわるアタクシの 根幹を揺るがしかねない事態じゃない?(^^; 正直、「こりゃもうだめだ…」と思いましたね。 じゃ、もうひとつの拠り所、「学校」はどうなってるのよ? って話ね。 「学校」じゃ、まさか「活用」の勉強するのに 「ら抜き」を「正」として教えてないと思うんだけどね。 (お子さんのいる方からの情報求む!!) つっても、親も教師もそんなこたぁ気にせずに、 ふだんから「ら抜き」を使ってれば、 学校の教科書になんて書いてあろうと、 そりゃ、子供たちは「ら抜き」になるよね(^^; このあたりどうなのよ? と思ったので調べました。 「文化庁」には、「国語審議会」ってのがあるんですね。 ここのWebサイトに「ら抜き言葉」についての記述がありました。 「ら抜き言葉」に限らず、こういう言葉の変化の過渡期を 「言葉のゆれ」って言うんですね。 この前までは、間違いだったけど のっぴきならない状況になりつつあるって事を 表現する時「言葉のゆれ」って使うみたいですわ(^^; で、「言葉のゆれ」って表現になるって事は、 「もう間違いとは言えない」ってのとほぼ同義って事みたい。 でもさぁ~、ちゃんとそういう事を議論してるんだったら もうちょっと頻繁に、広く、そういう事を告知しないとダメなんじゃない? 現在使われているどういう表現が「言葉のゆれ」として 認識されているのか?とか… 「あきらかに、間違いなので正していきましょう」とか… 全然伝わってこないよね(^^; この辺りを知っていて、「あえて使うのか」「あえて使わないのか」 「気にもせずに人が使っているから使うのか」 ずいぶん違うと思うんです。 実のところは、こんな事を言い始めた時からすでに 「すでにどうしようもない事」だという認識は あったんですけどね(^^; で最初に戻るけど、「言葉」を「道具」として考えた場合に より便利な方に行くって面からは、「ら抜き言葉」は ある程度理にかなってるわけです。 「食べられたんですね?」 とだけ言われたら、これは聞きなおさなければ 誰かに食べられてしまったのか? 丁寧な言い方として使ったのか? 怪我とか病気とかの障害があったけど、食べる事ができたのか? 区別がつかないわけです。 でも、 「食べれたんですね?」 って言ったら、意味は断定できるわけです。 明らかに、使い勝手がいいんですよね。 しかも、語数も短くなるからね。 「ら抜き言葉」はそろそろ、文法としても正しいと言う 認識になる時期に来ているのかもしれません。 とはいっても、やっぱりまだまだ 「きれいな日本語を話したい」という見地からすると 「ら抜かない言葉」にこだわりたいと言うのが個人的な見解です。 やはり正式な場では、「ら抜かない言葉」を期待するし、 ちゃんとした言葉遣いの人は、無条件に一目置くからね。 又、逆の立場の時にも、たとえその中の一人にでも 「ったく、こんな正式な場で ら抜き言葉を使うなんて…」 って、思われたくないからね(^^; なので、アタクシはなるべく「ら抜き言葉」は これからも使わないようにしていきたいと思う次第であります。 #
by kizzarmy_wording
| 2009-03-13 09:01
えっと、タイトルに深い意味はありません。(^^; ま、なんとなくそれっぽいので…(^^; さて、今日は再度【ら抜き言葉】について考えてみたいと思います。 ま、「そういう気分だから」と思ってください。 < 嘘 まずね、「言葉」って大前提として「道具」だって事を 認識しないとならないと思うんですね。 これが面白い事に「音楽理論」と似てるんですよ。 音楽って、「音楽理論」があって成り立ってるものじゃないんですよね。 もともとあった「音楽」ってものに対して、 「どうしたら心地よいか?」 「どうしたら感動させられるか?」 って見地に立って、いろいろと研究したものを 体系づけて行ったモノが「音楽理論」ってものだと思うんですよ。 「文法」も同じようなもんだと思うわけです。 もともと文法があったわけではなく、 道具を使いやすく、共通の認識にする為の、 記録みたいなもんじゃないですか? そしたら、より便利に、より確実に、よりおしゃれに、 自分の頭の中を、他人に伝えるために使う道具として「言葉」を見れば、 そりゃ「よりいい」方に進化して、変化して、当然ですよね。 「言葉」はどんどん変わっていく… 「文法」は後からくっついていく… そういう事です。 という事は、「絶対的にいつの世も正しい文法」なんて ありえないって事ですよね(^^; なので!! 実は、最初このBlogは 「正しい日本語を話したい!」 ってタイトルにしようと思ったんですが、 上記の事を考慮して 「きれいな日本語」 って事にしたんです(^^; とまぁ、そういう現実を見ると 「ら抜き言葉」って、今まさにこのまっただ中にあるって事ですわ! しかし!! とにかく、アタクシの様な年代のものは、 少なくとも学校では「正しい」と教わったものに 割とこだわる傾向があるわけです。 更に!! 文法的にどうこうっていうより、とにかく感覚的に「変」なんですね。 TVなんかでそれなりの人が「見れる」「食べれる」とか言っていると 非常に耳障りなわけです。 これはもう、理屈じゃない部分なんですね。 聞いた瞬間に、反射的に「変な感じ」を受けるわけです。 この「変な感じ」を、自分から見た他人にさせたくないので、 こんな辺境の地のBlogで、ヤイヤイいってるわけなんですね。(^^; これは例の「すごく」と「すごい」の使い分けでも同じ事が言えるんです。 つまり、「そんなのどうでもいいよ」って思う方は、 べつにいいんです。「どうぞ、どうぞ…」って感じ…(^^; でも、「そういう事を気にしたい人」もいますよね。 ましてや、そういう事を気にする人のジャンルに属したい、 認められたい、「よりよく聞こえる日本語」を使いたい、 「きれいな日本語」と思われる言葉を使いたい、 と少しでも思う場合は、このBlogでの提案にお付き合いいただけると ありがたいかなぁ~ と思う次第であります。(^^;;; でも、ここに非常に深刻な問題が立ちはだかる事になるわけなんですが、 それは、「後編」にて… (^^; #
by kizzarmy_wording
| 2009-03-12 10:44
以前書いた 『 auのCM [家族と もっと つながれる]について… 』 の続編です。 「ったく、こんな所でごちゃごちゃ言ってるだけじゃなんも変わらんだろ?」 なんて、思われたり、言われたりするのは、 若干意に沿わないので… (^^; 上述の話を書いた、2008年 8月14日 に 直接 「au」にこの事について、メールしました。 (^^; すぐに、非常に真摯な返答をいただきました。m(__)m ここまでで、 「お! さすが au ちゃんとしてるね」 って感じですよね(^^; で、それが本当なのか? 単なる社交辞令的返答なのかは 当然わかりませんが、そのメールには、 「すぐに担当部署に連絡して、検討させる」 との事だったんです。 当該のCM…(別に前日まで頻繁に見ていたわけではありませんが) その日を境に、現在に至るまで、二度と見る事はありませんでした。 いやね、別にアタクシのメールが原因で 放送されなくなったのかもしれん… って事を言いたいわけじゃないんですよ(^^; たまたま、そのCMの放映期間が終了したのかもしれないしね。 今回の趣旨は、どこの馬の骨ともわからん奴のメールに対しても 「au 」は非常に真摯に対応してくれたんだよ、って報告なんです。(^^) なんだか、ちょっと申し訳なくなるくらいの感じだったからさ… 実は、こういう言葉の問題って、一番大きなモノに 「感覚」ってのがあると思うんです。 今回の「つながれる」に関しても、聞いた瞬間に非常な「違和感」を 感じたんですね。 「ん? なんか変だぞ」 ってね。 で、この感覚的なものがあるからこそ、 こういう問題を扱う時に、とてもややこしい事になる(^^; それは、感覚的に アタクシはOK… 逆に それは、感覚的に アタクシはNG… って事になるからね。 いつも言ってますが、言葉なんて時代と共に変わるもの… でも、その変化の過渡期には、特にこの「感覚的なモノ」って 見過ごせない要因であったりするわけじゃないですか? なので、ここで次回の予告!! このあたりの事も踏まえて、次回は 『 【ら抜き言葉】はパラダイムシフトになりうるのか?』 をお送りします。 アハハ…(^^; ----------------------------- ※お詫びと追記 前回の記事のコメントにて、 「つながる」+「れる(可能)」と解釈すれば特におかしくないのでは? と言う、ご指摘をいただきました。 これに対する、自分の考えとして、ひとつは、 ★通常、自動詞には「可能」の活用はない と言うのと、 ★活用部分を考慮すると「つながられる」になってしまうのでは? と言う事を書きました。 しかし、二番目に関しては、完全に間違いでした。 ここに、お詫びして、訂正します。 申し訳ありませんでした。m(__)m で、なにが間違ってるの? って話ね(^^; 「つながる」ってのは、自動詞で、活用としては、 五段活用なんですね。 つなが・らない(ろう)未 つなが・ります 連用 つなが・る 終始 つなが・る時 連体 つなが・れば 仮定 つなが・れ 命令 通常、動詞に可能の助動詞をつける場合は、 「られる」 を使用するのですが、「五段活用」と「サ行変格活用」の時は 「れる」 を使用するのです。 って事は? (^^; そうなんですね。「つながる」に「可能」の助動詞を 適用する場合は「つながれる」になるんです。 アタクシは、「つながられる」+「ら抜き」じゃないかと 思ったのですが、これは明らかに間違いでした。 なので、 「つながれる」が「つながる」+「れる」ではなく、 「つなぐ」+「れる」と判断できる理由は、 「自動詞に可能はない」に尽きるという事に訂正させていただきます。 じゃなんで、「自動詞」に「可能」はおかしいのか? 考えてみました。(^^; 昨夜… (^^; たとえば、「咲く」とか「降る」とか… 自動詞って「自然にそうなる」って感じの言葉ですよね? つまり、その中にすでに「可能」の意味も入っている様な気がするんです。 「そうなれる」って意味が… 「そうなる事ができる状態(性質)を表している」と言ってもいいかも… 花は咲く力を持っているので、咲く 雨ってのは、それ自体が降るっていう性質を持っている 「~できる」って意味が入ってるような気がしませんか? なので、「可能」は基本的にないんだと思います。 以上の事を踏まえると、 当該のコメントでも、話題になっている >じゃあ,「家族と自然につながることができる」って語感を出すのは, >どう言ったらいいんでしょうか? にも、ひとつの答えがでます。 自動詞には既に、 「自然にそうなる事ができる」 って言う意味が入っているので、「つながる」に関して言えば、 「家族ともっとつながる」 で、充分、その役割を果たしているのではないでしょうか? #
by kizzarmy_wording
| 2008-12-11 11:02
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